作業メモとか考えた事とか (2005年1月)

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2005/1/1 (土)

blog はじめます

直接のきっかけは、[フォント作成] FontForge [PfaEdit] で、

# つーかコメント機能のついた blog システムに移行キボンヌ

と書かれたことにある。第三者には理解不能で情報価値もない一対一のメッセージが匿名掲示板上に恒常的に出るというのは不健全だと思うので、導入を決めた。

どのシステムを使うかは、さほど悩まずに blosxom に決定。HTML 直書きなので、過去のデータを使い回せるし、ミニマリスティックな単純さが自分の性に合う (例えば、部品となる個々のファイルは http://khdd.net/kanou/b/ 以下でアクセスできるようにしてある)。今のところ、blosxom starter kit をほとんどデフォルトのままで使っている。これから表示などは改善していく予定。余分な情報の多くて一覧性の低い blog 画面が好きではないので、デフォルトではもう少し寡黙にしたい。

今日から過去データを載せて公開を開始したが、全く暫定的な物である。現在の http://khdd.net/cgi-bin/b.cgi という URL も変更される可能性があるし、個々のエントリの分割、分類、ファイル名などはこれから変更する (現在、全部「未整理」である)。blog がちゃんと動き始める時には、基本的にコメントなどもリセットする予定である。正式運用までは、著作権の扱いについては私に譲渡するという形にさせて頂きたい (著作権の生じるような文章は自分のページに書いてリンクを示してほしい)。

ただし、手書きの静的コンテンツをやめる気はない。エントリごとに分割し、blog としてアクセスできるようにするだけである。コメントやトラックバックなどのインタラクティブな要素は動的コンテンツ (blog) でしか読めないし、分野ごとに分けて表示する機能は、一つの作業の流れを追うなどに便利だと思うので、自分でも活用するつもりではあるが、あくまで補助的なものであって、作業メモとか考えた事とかを月毎にファイルを分けて順次書き連ねていくという基本スタイルは従来のままである。

運用方針については、ここで書くと面倒なので、別ファイルに書き加えていく予定。

2005/1/2 (日)

FontForge マニュアル日本語訳更新

今日は例年の年始客で、あまり時間が取れず。明日で正月休みも終わりなので昨年の積み残しの作業を片付けなくては。

積み残しの中でも最大だと思っているのが、FontForgeマニュアル日本語訳プロジェクト。昨年末までに全ファイルを翻訳して、オリジナルの cvs ツリーに入れてもらう計画でいたのだが、全ファイルの 70% までしか翻訳できなかった。

去る 12/31 に出た更新を反映し、今年最初の翻訳の追加 (pcf-format.html) を行った。翻訳予定のあるのは残り 23 ファイル。それが終わったら操作画面を撮り直さなければならない。

残りのファイル

2005年1月2日現在未翻訳のファイルのアクセス失敗数ランキングは以下のとおり。

  51 GlossaryFS.html
  22 IndexFS.html
  14 problems.html
  14 non-standard.html
  14 MetaFont.html
  12 sfd.html
  10 macformats.html
  10 kernpairs.html
  10 contextchain.html
  10 accented.html
   9 statemachine.html
   9 splinefont.html
   9 TrueOpenTables.html
   9 BDFgrey.html
   7 views.html
   6 changelog.html
   2 otherlinks.html

基本的にアクセス数の多いものから順に翻訳しているのだが、タイポグラフィ用語事典と索引は、日本語の項目並べ替えが面倒でずっとサボったきりである。

ちなみに、翻訳済みファイルのアクセスランキングは以下のとおり。

1499 overview.html
 811 index.html
 553 faq.html
 551 MacOSX.html
 464 editexample.html
……
(全ランキング)

基本的に最初に翻訳した項目のアクセス量が多いが、FAQ を翻訳したのはかなり後なのにランキング上位に来ている。

謎の参照元

アクセスを調べてみたら、overview.html最近更新していない解説ページ に、去る 30 日から 100 件ものアクセスが http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=352903経由で来ていることが判明。

何を書いているかは読めなかったが、活用してくれているようでしたら幸いです。とはいえ、解説ページの方は古い情報ばかりなのであまり真に受けないようにお願いします。誤植の指摘など、私にフィードバックした方が有効な事があったら こちら にコメント頂ければと思います。その他ご協力頂ける方がいれば随時募集中です。

2005/1/6 (水)

作業予定

昨日、やりかけて止まっている作業を書き出してみたら、あまりにも多くて困ってしまった。とりあえず、必要な作業の量に対して効果の大きそうなものを優先することにして、FontForge のスクリプト書きをまとめてこなそうかと思っている。

まず、M+ のプロポーショナル欧文組み込みに関して、メールを書いた。データファイルを別に分けることはできない (プログラムの機能追加が必要) と思い込んでいたのだが、1 ファイルでよければ AskUser() を使って標準入力から読み込むことで簡単に解決できることに気づいた (←遅すぎ)。

また、最近の FontForge で EPS を読み込むとアウトライン文字が白抜けになってしまうのも、太さのある線で描画しているからだということに気づいた (FontForge の EPS の読み込みルーチンは、塗り潰しを無視する仕様らしい)。機能が充実したおかげで生じた問題だったとは。

どちらも、最初の思い込みで FontForge の大改造が必要だと思い込んで処理を先延ばしにしていたわけである。自分の頭の固さが呪わしい。

とりあえず、線の太さを無視 (おそらく現状と同じである) していいならば EPS 分割のときに線幅を 0 に置換するだけで回避できる。あとは分割ルーチンで長方形の領域を扱えるようにすればいいわけで、これは KoRoN さん がすぐにやってくださるだろう。

一応、次の M+ TESTFLIGHT 009 ではプロポーショナル欧文が組み込めるのではないかと期待している。さざなみフォントを CID 化すると言っていながらずっと出来ていない (で催促されている) のは、実はこれを待っていたためでもあった。

組版関連の予定

もう一つ、今月は JIS X 4051 関連を重点的にやりたい。

最近の読書録」で知ったが、来月の頭、日仏会館で家辺勝文さんの講演「ページとコンピュータ・ディスプレイ:テキストの見せ方と読み方の現在」が行われるのだそうだ。

2004年に改正された JIS X 4051「日本語文書の組版方法」は、その実務的な技術的内容のみならず、情報技術における文字とテキストの基本的なとらえ方という点でもユニークな位置づけをもちうるものである。言語学が新たな視点から書き言葉を研究対象とする可能性を探りながら、組版方法規格の置かれた知的文脈を辿る。

とのこと。ぜひ参加したい。

「組版の規格」を読む難しさ

この規格は単純に頭から読んでプログラムが書けるものではなく、(自動処理を考慮しつつ) あるべき日本語組版の姿について、幅を示しつつ一貫した体系として提示されている。だが、実際には組版を構成する各要素は、汎用的な組版ソフトウェアやフォントなどの出来合いの物であり、特定の要素にとって、他の要素が常に適切であるとは限らない。縮言すれば、例外系の処理を自分で書き出さなければソフトは書けない。

一般に、組版を構成するためには 5 種のデータがあればいいはずである。本文 (と図版)・構造情報・組版指定・フォントの 4 つと、それらを入力として与えられた時にグリフや図版・罫線などをどう並べるかを定める組版方法 (アルゴリズム) である (手動による調整を加えた組版である場合は、個別の調整がここに加わる)。JIS X 4051 は一つの完結した体系であるために、ソフトウェアの動作 (組版方法) に留まらず、規定や参考情報に望ましい指定の範囲を示したり、数値の表記方法に関する本文の整理方法を示したりと、入力情報に関する規整も数多く含んでいる (構造情報に関しては、その多くを JIS X 4052「日本語文書の組版指定交換形式」に譲っている)。

とくに問題になるのはフォントのメトリックだ。X 4051 では「中点類の幅は半角とする」のように、メトリックを天下り的に与えてしまっている。しかし市販されている日本語フォントファイルには既に固有のメトリックが存在し、多くは約物類も全角固定の幅をもっている。まず最初に、ソフトウェアは読み替えを行う必要がある。しかし、和文のプロポーショナルな字幅をもつ例外的なフォントもあるので、話は単純ではない (等幅フォントしかメニューに表示しないというなら、判別方法を規定しなければならない)。

欧文フォントの場合は、さらにその対立は深刻なものとなる。山本太郎さんが欧文のワード・スペースが全角の1/3だという迷信を信じ続ける愚かさと厳しく指摘されている事柄は尤もであると思う。ソフトウェアとしては、欧文フォントのもつスペース文字の幅を使用するほうが (メトリックの読み替えの手間が要らない分) 楽だし、自然になるように思われる。ついでに言えば、三分アキなしで全部二分アキと四分アキであってくれたほうが、画面表示などの低解像度での端数処理が減って楽だ。

最近、このくだりは和文書体の従属欧文の満たすべき条件として(も)読むべきなのではないかとも考えた。「欧文の語間スペースのデフォルトが三分に変更されても違和感のないような、x-height が高く、幅の広い書体を使うべし」と暗黙に推奨しているのではないか。和文書体の従属欧文が Century 系を多く用いる理由の一つとして、この条件があるように思う。

実際に三分が適切かどうかは議論の余地があるが、おそらく合意に達することはないだろう。山本さんは主に (少なくとも 1 段落以上にのぼる) 欧文テキストの組版を想定し、JIS が主な目的とするのは和文段落中の挿入句の語間スペース (和字-欧字間を四分アキとすることにより、和文中の挿入句全体が一つのまとまりとして見えながら、和欧字間の空きが意味上の区切りとして空けているとの印象を与えないような整合的な見栄えを意図している) であろうから、視覚的に最適な空きがそもそも異なる可能性がある。欧文の em と和文の全角が同じ物であるかも再検討が必要だ。欧文が漢字の仮想ボディから上下にはみ出すのであれば「1em > 全角」であり、その結果「1/4 em = 三分」となっても矛盾しない。最終的には、感性の問題に行き当たるだろう。活版時代を基準とした日本の書籍組版では欧文の段落引用であっても、現代の欧文タイポグラフィから見れば空きすぎのワードスペースを好む傾向があるようだ。

2005/1/7 ()

白馬節会

今日は七草。腹を休めるためといっても食べすぎては何の意味もないことを実感。

昔でいえば白馬節会である。「白馬節会」と書いて「あおうまのせちえ」と読むことは、ここを読みに来ている方ならとっくにご存知のことと思う。

実はこのネタは、最近買った府川充男「難読語辞典」(太田出版) をめくりながら拾ったもの。パラパラめくるととても楽しい本である (本屋でやってみるといい)。

ところで、この辞典の語釈を読んでいて、一つ驚いたことがある。

あおうま-の-せちえ|あをうまのせちゑ (白馬節会) 古昔、朝廷で正月七日に左右の馬寮から二十一疋の白馬を庭に引きだし天皇の臺〔台〕覧に供し群臣に宴を下賜した節会。七日の節会。
(強調引用者。原文のルビ等は省略)

「台覧」は旧字では「台覽」であって「臺覽」ではないはずなのだが。敬語として使う「台○」は「三台星」という星座から来ていて、「臺」の新字体ではない、とそこらの辞書にも書いてある。

とはいえ、「臺覽」という誤用例は珍しくない。ちょっと「臺覧」でぐぐっただけでも、嘉悦大学図書館の怒るな働け(二六)がヒット。原文ページの画像は解像度が低く、「覽」でなく「覧」なのかどうかは確認できないが、「台」でなく「臺」であることは判る。底本は 資料リストによると、1920(大正9)年発行の第16版である。(「臺覽」だとちょっと信頼できる用例に行き当たらなかったので略。無関係な李白の「蘇台覧古」の引用多数)。

次に、近代デジタルライブラリーで「台覧」を検索してみたら目次文字列から 5 件ヒット。うち 1 件 (久保天随「李杜評釈」) は無関係なので 4 例。そのうち 1 例 (京都市第一高等小学校教育概況) が「臺覽」と書いている。

とはいえ、さすがに辞書では「臺覽」としているものは無いだろうと思う。 「難読語辞典」の方針が「本辞典の立場はあくまで記述的であって凡そ規範的ではない」(序より) とは言え、本当に「明治二十年代以降の辞・事典を渉猟して (帯より)」得られた例があったのだろうか。次に、「辞典」を検索して表示された辞書を、頭からどんどん引いていく。

「台覽」の例

途中までで倦きたのでこのへんにしておく。

「臺覽」とする辞書

ところが、驚いたことに「臺覽」としている辞書があった!

である。

これは、上の諸辞典とめくり比べてみればすぐ判るが、非常に作りがいい加減な、うさん臭い用字辞典である。頭文字でソートした後は単語が順不同にズラズラ並んでいると言う前近代的配列法 (意味分類もされていないので節用集にも劣る)。しかも、(汚れが多くて濁点の有無が判然としないが、)「た」の字の4画目の線の延び方からすると「だいらん」と読ませてるようである。(上の辞書は皆「たいらん」)。はっきり言って、現代に辞書を編纂するときに参照するだけの価値は無いでしょう。

やはり「台覧」とするのがいいと思う。この怪しい辞書の用例を認めたとしても、「臺覽」が圧倒的に少数派であったことは間違いないので、地の文で「臺覧」を遣う必要は感じられない。

2005/1/11 (火)

FontForge の修正

ここ 2 ヶ月ほど、漢字 BDF が正しいエンコーディングで開けない状態になっていたのを修正。これでやっと、さざなみフォントのビルドスクリプトがまた動くようになった。いつものごとく修正するまでに一苦労。libiconv に依存するようになってから、問題点の所在が見えにくくなってしまったため、正しい問題点になかなか気づかず苦労する。

教訓: 異様に遅い時にはプロファイルを取る前に、どこかで異状が起こっているのではないかと疑いましょう。

CID 化の作業は明後日から。明日はマニュアルに寄贈していただいた訳文のマージなど、文書化のほうを優先してやる予定。

花粉開き

昼、隣の駅まで歩いて帰っただけで、涙が出て顔が火照り、眠くなってそのうち耳にも若干の痒み。帰宅時に、目の痒み。間違いなく花粉が飛んでいる。3 日ほど前から唇と舌の粘膜が荒れ気味だったが、これも花粉症の前駆症状だったようだ。

去年よりも 2 週間は早い。対策として、とりあえず棗を毎日食べることにする。

2005/1/24 (月)

近況

2 週間ほどここに書いていなかったが、割合に忙しい。

CID 化キットの煤払いついでに出てきた FreeType のバグ報告 (壊れたビットマップを食わせると core を吐く件) とか、FontForge の使い方についてのレシピ集を書いたりとか、ここのところは M+ のプロポーショナル組み込みでいろいろ試している。その合間に FontForge マニュアル日本語訳の更新とか。基本的に、FontForge の周縁的部分に関する作業が多い。

OSC 2005

かずひこさんからアナウンスがされている話について、私からも一言。

3月26日(土)に開かれるオープンソースカンファレンス 2005 で、フォント関係のセッションをやることになりました。まだ何も詳しい内容は決まっていないのだけど、一方的に成果を発表する場として使うのではなく、フォントの作成者・利用者の間で実質的な議論ができる場になることを期待しています。

今の考え

私から訴えかけたいことは、絶対的な人手不足。単なるユーザでも増えてくれれば、バグ出しができる。フォントそのものをいじることの面白さをもっと多くの人に知ってもらいたいということ。そのためにできる簡単なこととして、とりあえず、FontForge の使用のプロモーションから始めている。

逆に、フォントを作ってはいるものの使う側としてはまことにライトユーザなので (自分では Mac OS X で游明朝体 R を使っていたりする卑怯者である)、ユーザの側から、現在の OSS 上のフォントに関してどんな不満を持っているのかよく知らない。ある人にとってはフォント追加の UIだったり、または、唯一まともに表示できる IPA フォントの (Debian の基準でいう) non-free なライセンスだったりすることが問題だろう。この辺の雑多な不満を一つの所に集約して、問題点を認識しないことには、いつまでたっても放置され続けると思うのだ。

Wikipedia について

(この記事以降のリストの追加分は31日。)

ちょうど 1 ヶ月前に書いた掲示板への書き込みが、地味にあちこちで言及されているようなので、反応リンク作成ついでに考えている事を書くことにした。

「スイングバイの正しい説明を求む」

発端は、野尻ボードへの私の書き込み「スイングバイの正しい説明を求む」である。ある意味自分の認識の甘さ (誰か偉い人に頼れば解決してくれるという幻想) が窺える書き込みである。

掲示板の内外で地味ながら盛り上がっている書き込みを見て、結局、考える事は誰でも同じなのだと悟った。ああ、みんな Wikipedia を見たことがあって、隔靴掻痒の感を覚えた経験があるのだなと。

反応リンク集

同時期に、Wikipedia の信頼性に関する Larry Sanger らの議論があった。これに関しては、Wired News「拡大するフリー百科事典『ウィキペディア』の課題」(2005-01-10)がよくまとまっている。

これらの件に直接言及した物ではないが、eijyo「コスモピアで討論会」(2005-01-15) は、プロの辞書編集者の立場から見た Wikipedia とはてなキーワードの感想として貴重。

(31日追記)

読者として思うこと

Wikipedia の中の人は偉いと思う。いやほんとに。

誰でも書けるようにすれば、無知なのか悪意でか知らないが、他人の文章を勝手に貼り付けるやつが出てくる。それをコミュニティが常時監視していて不審な書き込みを排除している。むちゃくちゃ大変そうだ。他にも、主義信条に対する対立した立場からの書き込みが錯綜した時の保護までガイドラインができている。 よくまあ面倒事に関わり合う気になる物だ。 Aerodynamic-航空力学「Wikipedia『千乃裕子』編集合戦」の一例を見ただけで、ゴミを排除するのに必要とされる日々の努力には想像を絶する面倒臭さがあるのだろうと思う。

読者の立場から言えば、今まで紙 や CD で提供されてきた事典で得られなかった利便性が少なくとも 3 つある。

1) 時事的な事柄について、百科事典の形態で簡潔なまとめが書かれていること。 例えば英語版の記事2004 Indian Ocean earthquakeは、発生から 9 時間後に最初の記事が投稿されて以来、1/24 正午現在、5100 回を超える改訂が加えられている。

2) 同じ事柄について、各言語版を同時に参照できること。読めない言語でも、固有名詞などを頼りに眺めるだけで情報が得られる。その国で、ある事柄に対してどのような角度からの関心が強いかが見えてくる。外国の文化的事柄であれば、その言語版に情報が豊富なのは当然のこと。(Bayern便り「なんだか長い一日でした。」(2005-01-13)によると、ドイツ語版で「新即物主義」の画家の情報が豊富に得られるとのこと。)

3)「○○の一覧」や年表のような、多様な検索軸が用意されていること。とくに、数量の比較は非常に楽しい。世界の森林面積と月の表面積がほぼ同じなんて、今まで比較してみようとも思わなかった。

書き込んだ理由

私が、外部に助けを求めざるを得ないと思った理由は、だいたい以下のとおりである。これはかなり例外的な事態だと思う (というか、そこらじゅうにこんな記事が溢れ返っているようなら「Wikipedia を信じるな」と喧伝して回るだろう)。

1) Wikipedia で、その項目 (2004/12/24 当時) に関する根本的な事実誤認があるのを発見した最初の例だったこと。

2) 外形的なまともさの基準を満たしていないこと。臆測による水増しが著しい。これは、短い記事が忌避される Wikipedia の編集方針が裏目に出た例ともいえるだろう。 「適切な軌道」をとることの重要性を力説しているが、どのような軌道を適切と言えるのか、全く書いていない。対象の公転軌道の前を通ると減速、後ろを通ると加速ということくらい言及しておいてほしい。(野尻抱介さんは「どこをとってもシュールな味わいに満ちてますねー」と評しているが、私としては主観的な形容を多用した力の入り具合が、どことなく「めばえ系」を彷彿とさせると指摘しておきたい)

3) 7 月に書かれてから半年近く誤りが放置されていたこと。

4) 疑いを持たずに引用している人が既にいること。Google 一発でもっと正確な情報がたくさん入って来るのに。

5) その晩は、知らず知らずやさぐれた気分になっていたのかもしれない。

今回の件で考えたこと

今回のテーマは宇宙開発というインターネット利用者率が高く・利用歴も長い人たちがたくさんいるはずの分野で起こった。なぜ玄人がいなかったのだろうか。また、記述に問題のある項目を発見しても直しづらいことがあるという証言が多く出ている。

専門家の人がネット上にたくさんいても、手を出しづらいのはなぜか。大体は見当がつく。

自分は専門職についているわけではないが、それでも知識のある事柄について書こうと思うと、これまでの活動で積み上げてきた実績に恥じない物を書かなければと気負い込んでしまう。単純な修正なら気軽にできるが、微妙に違和感を感じる記述を直そうと思うと、「なぜそれを直さなければならないのか」他人を納得させられるだけの理論武装をしなければならず、そのための準備の量が大雑把に見積もれる (「たくさん」) ため、もっと有益な活動に使いたくなる。どうせ書くなら自分一人でやったほうがよっぽど気が楽だし。…となって、スルーしてしまうのである。

こういう完璧主義はあまり生産的でないことは自覚している。自尊心の間違った方向への発露かもしれない。だが、私は田崎さんほど高い理想を掲げているわけではない。「出版社が出しているやつだってゼロから自分で全部書きなおしたくなる」のなら、Wikipedia にも高すぎる基準を求める必要はないと思う。若干の食い足りなさは常に残るものだ。むしろ、読み手の側のリテラシーをもっと高めていくことによって、事態を改善するべきかと思う。

専門家が書いて一流とされている出版社から出ている物ですら、鵜呑みにするのは危険だという教訓話がある。 岩波 現代経済学事典の記述について、論証抜きの断定のが多いことを、田中秀臣さんが例を挙げて取り上げられている経済板ロビー vol.14によると、「マクロ経済学関係の項目の参考文献などは、ほとんど伊東光晴、宮崎義一などだけで、80年代以降の文献が皆無に等しい」とのこと。これなんか非常に分かりやすい例だと思う (専門事典として、依拠する文献に四半世紀のタイムラグがあるというのは非常にやばい)。事実に立脚して語るべきときに根拠を明示しない断定的表現が出てきた場合には、その信頼性を慎重に確かめ直す必要がある。文中からの外部リンクの禁止という Wikipedia の規範は、記事の信頼性を自ら立証するためにマイナスの効果をもっていると思う。

Wikipedia に執筆してほしい人は Wikipedia の必要性を感じないというジレンマがある (尻込みするだけの理由もある)。Wikipedia のメンテナンス業務に関わり合う手間は割けないがコンテンツを提供してもいいという人はたくさんいるはずだ。そういう人は、自分で一次記述を提供して自分のサイトで公開し、GFDLでの利用は勝手にしてよい (GFDL と今までの利用規定とのデュアルライセンス) と宣言するのはどうだろうか。その代わりその後の派生バージョンには一切責任は負わないことを宣言しておく。GFDL での利用に関して、最初は許可を与えるという方式のほうがいいかもしれない (証拠が残るという点で)。

今回新たに気づかされたが、百科事典の記述は、単なる正しい事実を集積した物ではなく、記述対象の選択こそがその大きな価値なのであるということ。最初に間違った方向に進んでしまった記事の軌道修正については、あまりよい解決策が思い浮かばない。個人的には、見識を著しく欠くダメな記事は遠慮会釈なく消してしまうのがいちばん良い解決策であると思う。

Wikipedia は、信頼すべき情報源とはならないだろうが、は、よき「まとめサイト」として活躍することは十分に可能だと思う。量の拡大を急ぎすぎさえしなければ、水準以上のまとめが行われる場として認知されるのではないだろうか。 百科事典的中立な立場から記事を編集するというのは、どの分野の専門家でもなく、「調べて書くこと」の専門家としての専門性のほうがより強く要求されるのかもしれない。それは (広い意味での) ジャーナリストの仕事である。いわゆる「blog ジャーナリズム」の将来性にはあまり期待していないが、Wikipedia には少し期待してもいいかな、と思っている。そのための互助的な人材育成こそが、これからの記事の質を高めるために必要ではないかと思う。

2005/1/31 (月)

続・Wikipedia について

反応リンク集第 2 弾

24 日に考察をまとめてから、今までにも増して内容の濃い考察が多数寄せられたので、またリンクをまとめた。

前回、辺境から戯れ言「専門知 v.s. 集団知」yet another自分用メモ「カッシーニ/ホイヘンス トピックス」の 2 件をリンク忘れていた。

24 日以降の追加分は以下のとおり。

感想

何気なく書いた「Wikipedia に執筆してほしい人は Wikipedia の必要性を感じないジレンマ」について、[1][2][4] で言及があった。私は自明な事だと思っていたのだが、案外盲点なのかもしれない。わざわざ自明なジレンマを持ち出したのは、それによって「Wikipedia の外の WWW 全体で言えば、科学技術情報は、在来メディア (例えば新聞とか) における平均よりも質・量両面において勝っているし、他ジャンルよりも充実している。それなのに、Wikipedia でそれが逆転している傾向にあるのはなぜか?」という謎がきれいに説明できるからである。

おそらく、WWW を昔から利用している人にとっては「何を今更」の感があるはずだ。野尻ボードの方では「ジレンマ」を当然の前提として議論が進んでいる。(私も含め)そこの読者は「今更」感を内化している人であり、「なんでわざわざ Wikipedia なの?」という疑問を持っている。

自分にも言われてみるまで気づかない盲点があった。掲示板でのガさんの「wikipediaの信頼度は2ちゃんねると同等だと思います」という発言がそれ。2 ちゃんとの違いは、ゴミがなくてまとまっている事による便利度の差だけだと。「(当然、知識自体は自力で確認)」とおっしゃるとおり、まさに「嘘を嘘と見抜けない人には Wikipedia を使うのは難しい」。とは言え、ネット全体から正しい知識を探す能力が低く、Wikipedia の記述を鵜呑みにしてしまうような人こそが、Wikipedia の類に頼りがちであるという第二のジレンマがあるわけですが。

ところで、「烏合の衆」というのは集団の属性であって、個人の属性ではないと思うのです。一人一人は専門家でも、それを下手糞なやりかたで寄せ集めることによって、烏合の衆を作り上げることはできる。田崎さんがお書きになっているアンケートなんてのはまさにその例ではないでしょうか。ただ単に寄せ集めると、見識のある一人の目から見て非常に不十分な物ができてしまう。

Wikipedia のコミュニティは、コアの部分はそのような烏合の衆とはかけ離れた組織化がされている。もちろん問題点はあるに決まっているが、それが問題の本質ではない。作業者の規模に比べて作業の規模が大きすぎることのほうが根本的問題だ。これはオープンソースと一緒だなあ。というか、百科事典は森羅万象を対象とするわけで、仮名漢の辞書をメンテするだけであれだけ苦労していた私からすると、そんな巨大な物は考えるだけで恐ろしい。