作業メモとか考えた事とか (2005年2月)

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2005/2/1 (火)

続・Wikipedia についての感想の続き

昨日のうちに書いたのにアップロードできてなかった orz

スイングバイネタまだ続きます。

「ジレンマ」を箇条書にしてみると

前に言った、以下のような感じか。

一番能力の高い人(プロ)
→忙しい。商用にお声がかかる。
次に能力が高い人(セミプロ)
→自分のサイトにまとめた方がやりやすい。
まあまあ書ける人(アマチュア)
→そのネタに対して書くからにはきっちりやらないと気が済まない。とりあえず今はパス。
なんとか書ける人(素人)
→調べ直すのが骨だし、そのネタに対して情熱が湧かない。

私は、項目「スイングバイ」において素人で、いくつかの項目についてアマチュアの位置にある。

今さら防腐剤

「先生側」対「大衆側」の図式について腐臭を放つような誤解を広げないために一言。防腐剤 (というか防臭剤) を撒いておきます。あくまで私の現状認識であって、そのレベルで相違がある可能性もありますが。

私が今回槍玉に挙げた誤りは、トンデモ学説の信奉者による物ではなく、ただの無知に基づく物だと思う。だからトンデモ対科学、という図式はちょっと外しているように思う (心配する気持は分かるが)。トンデモは、一般的な学説を断片的に理解していて、その論理的帰結が自分の思い込みに合わないという理由で学説の方を誤りにしたがる人のことです。例えば、スイングバイについては「一般に動いている天体が必要と言われているが、それは嘘で、重力さえあれば」とか言い出したらトンデモさん確定。

前回「めばえ系」の風味があると表したけど「電波系」とは言っていない。めばえ系と電波系の共通点として、傍から見て異常なほどに自己の信念に確信を持っている点がある。自分の知識の正確性を、疑ってみようとすらしない。普通は自分の知識が曖昧だったら、ちゃんとした他の根拠と照らし合わせてみる (外国語版の記事を読むか、ぐぐって出てきた上位のリンクを読むか、書籍に当たるとか) というのが常識だと思うけど、それを行った形跡は全くない。

でも、改訂履歴を見ると、「識者の数値的な補遺を強く希望します(T-T)」と書かれている通り、執筆者の人は知識量が足りていないということは強く自覚しているわけですね。好意的に考えれば、著作権に対する過度の配慮、と取れなくもない。他の資料を参照して、誰かの著作権を侵害してしまう可能性を恐れて、脳内の知識だけから全部を書き起こしたのかもしれない (でも同じ GFDL の他言語版 Wikipedia を参照するのは悪くないと思うけど)。

べつに資料を参照してもいいのである。著作権法は書かれている事実に及ぶ物ではないのだから。自分なりの構成と取捨選択を持ってオリジナルの物を書き下せるなら、資料を見るに恐れることは無いはずだ。

では「自分なりの構成と取捨選択」はどうやって行えばいいか。簡単なことだ。百科事典の項目にすればいいだけの話である。

百科事典の項目

ここでもう一つことわりを入れておくが、Wikipedia が目指しているのは百科事典だ。書籍で言えば啓蒙書レベル (新書判でよく出ているような)。知識として重要な事実を知らせることに専念すればよい。思考体系を伝える物ではないから、ふつうは式の導出などを行ってみせる必要はない。それは読む本で言えば教科書とか、引く本で言えば専門事典の仕事だ。物理事典は百科事典の物理の項目だけを抜き出してきた物ではなく、より専門的な視点をもち、物理の体系の中での位置付けを明らかにするような記述がなされている物である。 スウィング・バイは実は三角関数の知識があれば簡単に試算することが可能というのは今回初めて知ったが、このような知識は専門事典でよろしい。

逆に言うと、百科的な興味の持ち方から書いた記事を集めなければ百科事典は作れない (例えば動物だったら生物学的な特徴だけでなく、文化の中での位置付けにも目配りが必要だ)。スイングバイだったら、物理的な記述 6 割に、実際の応用例 4 割くらいのバランスでいいだろう。恒星間飛行という現時点では SF ネタでしかない話を持ち出す必要はない (やるんならどの程度「使える」技術なのか SF 的考察を入れてほしい。太陽系近傍での恒星間の相対速度がどれくらいかとか)。

百科事典なら、辞書的定義、別名を述べた次に持ってくる最重要ポイントとして「重力を使って飛び出す」という不思議な現象 (これが不思議だと思わない人もいるだろうが)直感的に納得させることを考える。(これは英語版の解説が分かりやすくていいのではないかと思う)。

盛り込むべきチェックポイントとしては、このくらい押さえておけばいいのではないか。

この構成立てがいちばん「文化的な見識」を問われる所で、これがぐずぐずだとどうにもいじりようがないダメ項目になってしまう。これは掲示板の議論で皆さん指摘しておられるところ。正直言って、自分でも自身がない。

Ward Cunningham は「とどのつまりそれは百科事典にはならんよ。それは Wiki だろうね」と評したのだそうだけど、あくまでそれは傍から見た感想であって、作り手側の意識・目標としては「フリーでコピーレフトな百科事典」以外の物ではありえない。

悲観的な議論について

反応リンク集第 2 弾を読み返すと、結構悲観的な見方が目立つ。[1]の、ミーム論に絡めた考察とか、[3] の「専門家=商品」論とかは、正しい事実が正しさのゆえに伝わるという素朴な楽観論を打ち砕く見解であるように思う。

生物が遺伝子の、そしてミームの運び屋でしかないのと同様、Wikipedia や Blog はミームの運び屋でしかないのだ。Wikipedia や Blog は伝播性の高いミームが盛り上がっている場にすぎないのである。こう割り切れば Wikipedia や Blog を「正しさ」とか「良さ」といった情緒的な観念と切り離して見る事ができるのではないかと。
([1] より)

Wikipedia と blog ではミームの伝播のしかたが全く違う。blog は流れていく物で、たまに特定のミームが blog から隣接 blog へと伝播していくパンデミック (「祭」) が起こることがあるが、永続的な影響力は持たない。Wikipedia はその逆で、連鎖的な影響は薄い (が無視できない) けれども、散発的にその項目を調べた人にミームを伝達する。誰かが誤りに気づいて修正するまでその影響は続く (Wikipedia は「伝播性の高いミームが盛り上がっている」だけでなく、百科事典を標榜することにより、自らその伝播性を高めていることを忘れてはならない)。Wikipedia における間違い記事はチフスのメアリーみたいなものだ。だから私の議論は Wikipedia のみを対象としていることをお断りしておく。

引用部の最後の文にはまったく共感できない。「静止した惑星でスイングバイを使って宇宙船を加速できる」という命題の真偽を論ずるのに情緒的観念は不要だし、「良さ」という点も、情緒的というよりはるかに実用的なものだ。だいいち、既存の記事を書き換える理由を元記事の書き手を含む Wikipedia 内部の人々に納得させるには、「正しさ」や(その他な意味での)「良さ」抜きにできるわけがない。自分が Wikipedia で調べ物をする時だって、その内容の正しさを気にしないはずがない。単なるミームの伝播として知識の伝達を捉え、「あー、流行ってるねー」というだけの単なる外部的な観察というかマーケティング的視点を得たからと言って何が嬉しいのかさっぱり分からない。

悲観的な議論について・続き

続いて[3]の議論。

議論の立場を「先生側」「大衆側」に二分」というのは面白い切り口だと思うけど,そこから見えて来るのは,二項対立なんかじゃなく,大衆を衆愚とみなしてあるいは「大衆の代表」と称して「啓蒙を!」と叫ぶ「専門家」とそれを(自分に都合のいい真実に耽溺するために)消費する「消費者」という構図なんだよね。だから場合によって「先生側」は「大衆側」に排撃されたり過剰にシンクロされたりするわけだ。でも「先生側」と「大衆側」は決して交わらずどこにも接続できない。
([3] より。リンクは引用者追加)

2004-12-29の「ほげ-pedia」にまで遡ると、「専門家」というのは「書かれている内容に対して誰が書いたかに関わらず必ず検証しようとする」人のことで、「消費者」というのは、それに対置されている「私たち普通の人は権威ある人が書いたものは正しいと思ってしまう」の「普通の人」のことであろうと解釈できる。要するにメディアリテラシーの有無のことであって、特定分野の専門的知識とはほとんど無関係と言ってもいいのでは。例えばメディアリテラシーを身につけないまま医師国家試験に合格することはできるでしょう。

この区分は分かるのですが、荒川さんが [3] で「先生側」「大衆側」をどう分けているかというのが理解し難い。上の引用部の構図を構成要素に分解してみると、

という構図だということですね。「先生側」は「専門家 I 類」で、「大衆側」が「専門家 II 類」で、二項対立でなく三項鼎立だと。それでもって、第二の人々は時と場合によって専門家側についたり、消費者側についたりすると。(ここまで分けてやっと「だから場合によって…」の意味が理解できた)。それで、「専門家 I 類」が「Wikipedia に書く能力を持っていながら、Wikipedia に懐疑的な人」のことで、「専門家 II 類」が、「現に Wikipedia に書いている人」を指し、「消費者」が「Wikipedia を情報源として利用するだけの人」に該当することも分かる。

それとも、「自分の書いていることの正しさを自分で確認することもできずに、ただ爺的な書き込みを Wikipedia に続ける人」も「消費者」に入るのかな。そう考えれば、後ろの「誰も『出し抜こう』なんて思ってないもの。ただ消費したいだけ」というところと繋がるし、「Wikipedia に書き込んでいる人が全員『専門家』たるべきメディアリテラシーを備えているとは限らない」という論理的な問題点もなくなる。

それでも疑問点は残る。2003-06-22「『専門家』不要論みたいな」で論じている、コンビニの弁当のような商品としての言論を提供する「専門家」というのは、「メディアリテラシーのある人」とはまた別の意味合いがあるようだ。これは正直言って、「商品化」が何を指しているのか、鈎括弧つきの「『専門家』」とそうでない「専門家」は別物なのか、そのへんが分からないと理解できない (『自由を考える』を読めば分かるのかも知れんが)。

で、「でも『先生側』と『大衆側』は決して交わらずどこにも接続できない」と (とくに根拠を挙げずに) 結論づけているが、その理由を勝手に推測すると、「大衆側 (=「専門家 II 類」) が叫ぶ『啓蒙』の意味が、時と場合によって変化するから」ではないかと思う。「誰でも書き込めるんだから」という開き直りの下に、真実性・適格性のどちらもダメな書き込みが存在することの責任の一部を読者に求めるときに、「啓蒙」の二つの意味の使い分けが行われている。個別専門知識を広めるという意味での啓蒙 (他だしWikipedia 内部の活動に限る) と「メディアリテラシーを身につけること」という意味でと。

で、結論は、「ダメな書き手はダメなのだから糾弾しても蛙の面に水で虚しいですね」と言っているようにしか読めないのですが (被害妄想的読解か?)。もしそうだとしたら、それはあまりにも悲観的な見解というものだろう。ダメな書き込みが排除される機構さえ維持できれば大きな問題にはならない。

(2月3日追記)

上の解釈について直接ご返答いただけた。

私がぐだぐだ言ってるのは要するに「消費者」「大衆側」ってのがどういう人を指してるのか分かんないよーということだったのだが、そもそも「Wikipedia にアクセスしない、紙の辞典も引かない人」という人の存在を忘れてた。もし「消費者」ってのがそういう人のことだとしたら、私は延々と独り相撲を取っていたようで。お恥ずかしい話。

2005/2/2 (水)

閑話休題

とタイトルをつけたということは昨日一昨日の話 (とくに最後の方) は私にとって「閑話」だと宣言しているということではあるが。まとめを始めたのも、M+ Outline Font のための FontForge スクリプトの作業が行き詰まって、ff 本体のソース読まなきゃ面倒臭いなーの結果としての現実逃避だし。

続きがあるけど書けないかもしれないので概要だけ箇条書でメモ。

というわけで、書き終るまではと思っていたけど、とりあえず一段落。blog で読めるように最近の記事をコピーします。

次はいつものごとく、文字かフォントの話になる予定。再配布しやすいライセンスで IPA フォントが出たとか、文化審議会国語分科会の答申で常用漢字見直しが提唱されたとか。


追記。前の段落の IPA フォントの話は早とちり。読んでみたら今までと同じ。ま、考えてみりゃそうですが。

2005/2/3 (木)

最近滞っている KappaKana について

また、FontForge いじりのフェーズに入った。1 回分だけ公開した FontForge レシピ集 の 2 回目を公開するために必要なバグフィクスも、ついでにやってしまおうと思う。

私が偉そうな事を言ってから、カタカナのトレースの直しを数文字やっただけで、実はほとんど進んでいない。kaz さんは真剣に受け止められたようだが、手持ちの本をそこらじゅう調べても Kappa20 の「ま」と同じような形の文字が見つからなかったという、それだけのことである。

明朝体従属の仮名の「ま」には筆法のバリエーションがいくつかあるのだが、その中に、1 画目の内部で三折法をやっている形はまずない。むしろ教科書で用いられた「ま」の一部に、「末」の形をを止めたものがある。いま広く使われている書体で一番近いの「ま」を持っているのは、モリサワの MB101 あたりではないか?

論文紹介

potrace を使ったトレースの編集が効率化できるかもしれない論文を発見した。 河村圭・渡辺裕「ベクター変換における曲線最適化アルゴリズムの一検討」である。ぜひ一読をお勧めする。

potrace のアルゴリズムは図形の近似という意味ではかなり優秀だし、その根拠が非常に明快である。論文を読んだ時には感動して解説をこのメモに書いたくらいである。もう改良の余地は無いかと思っていたら、編集のしやすさを改善できるという。

確かに、現在のアルゴリズムでは多角形の中点に端点を置いているから、一番尖った所や一番張り出した所は点が無い状態である。逆に、頂点の部分に点を置くようにするアルゴリズムを提唱しているのが上記の論文。

いじっていて一番難しいのが、左払いの先などの尖った所。反対側 (払いの中間部) の線をちょっといじると先端が大きく変わるので、いじる前に点を足してやらないといけない。払いの調整の前には、まず先端に点を置く。そうすると、そのすぐ近辺の点も払いの中央側に寄せたくなるのだが…という具合で、線の形をいじる以前の準備にいくらか手間を取られてしまう。

最初から先端に点を置き、その他適切な位置に点を配してくれるなら、だいぶ調整が楽になりそうだ。現時点ではこのアルゴリズムを実装したプログラムの公開はされていないようだが、もし公開されたらぜひ試してみたい。

人生の時間を「シゲチヨ」単位で考える

「算数記」で紹介されていた「死を呼ぶ100年カレンダー」のエピソード。このカレンダーを購入して、安野光雅も「アア、ドンナニ頑張ッタトコロデ、ココニ書カレテイルドノ日カニ俺ハ死ヌノダ。人生ナドコノ薄ッペライ紙 1 枚ニ収マル物デシカナイノダナ」と虚無的な気分になったという話 (2 枚目を買いに行ったら既に製造中止になっていたそうだ) を「算私語録」に書いていた。自殺者が続出したという話は都市伝説ではなく実話なのだろう。たしかに、多感な若者にとって、そういう物と睨めっこしたら、きっと「小躯を以て此大をはからむと」してしまうに違いない。

この話はけっこう有名だと思ったが、同じ事を考える人が時おり出てくるもので、最近も報じられていた。 私はすぐにネガティブな方へと物を考えてしまう人間だが、このような話を聞くと、有為な若者の未来を救うために、ポジティブシンキングの重要性を説かざるを得ない。

そこでだ。とっておきのポジティブシンキングをご紹介しよう。長寿日本一、泉重千代翁の人生の長さを基準に考えるのだ。

重千代翁は慶応元年 (1865年) 6月29日(グレゴリオ暦8月20日)に生れ、1986年2月21日に亡くなった。その間 44,015 日。これを「1 重千代」とする。 計算しやすいように 44000 日 = 1 シゲチヨ (Sc) と定めよう。およそ 3 千分の 1 の誤差が生じる (重千代翁は 1.0003 シゲチヨ生きたことになる) が、44 日 = 1 ミリシゲチヨ (mSc) と分かりやすくなる。

人類最長寿のジャンヌ・カルマンさん(1875年02月21日〜1997年8月4日)の生きた122年と164日は44724日 = 1.016 重千代に当たる (シゲチヨ単位でも小数点以下第 3 位までは一致するが、ここは直接比較でいきたい)。これからは男性は 1 シゲチヨ、女性は 1.016 シゲチヨを基準に自分の人生を考えるように。松下幸之助(1894年11月27日生れ)は 160 歳を「天寿」と名付けて、それまで生きるつもりだったらしい。とんでもなく欲張りなようだが、「1.33 シゲチヨ」と考えれば、単に人よりちょっと長生きするだけのこと、ひょっとしたらできそうな気もしてくるではないか。

さて、長寿といえば誰もが思い出す、1892年8月1日生まれの双子、きんさん(2000年1月23日没) は 0.892 シゲチヨ、ぎんさん (2001年2月28日没) は 0.901 シゲチヨで惜しくも亡くなったことになる。シゲチヨの壁は厚い。二人合わせれば 1.794 シゲチヨだが、重千代翁が同じ町内の&かまとバア(1887-09-16〜2003-10-31) とタッグを組めば 1.964 シゲチヨの長寿パワーを発揮する。伊仙町最強である。

さて、百年カレンダーといえども恐るるに足らず。たかだか 36525 日、0.818 シゲチヨしか収まらない。あの膨大な数字の中に自分の人生は縮約されてしまうのだなどと悲観する必要はない。ある一人の人生の二割近くはあそこからはみ出しているのだ。

しかも 100 歳以上の長寿者の人数は年々増えているのだそうだ。リンク先の情報によると、2004 年 8 月末時点で 23,038 人 (厚生労働省調べ)。過去 40 年で 150 倍に増え、最近 12 年間は毎年十数% の伸び率なのだという。人は一時点の生命表に従った確率で死ぬわけではない。今 32 歳の私と同年代が 10 年後に何人生き残っているかは、10 年後の 42 歳の生命表を見なけりゃ分からないのだ。

ムーアの法則のごとく、先に述べたトレンド (増加率 15% としよう) がこの先も 40 年くらい続くとすれば、2045 年には 66 万人のセンテナリアンが日本にいることになる。つまり、今あなたが 60 歳以下であれば、100 歳まで生きるのは特別なことでも何でもない。ほおら、無限の可能性が開けてきたような気がするでしょ?

…本当はフォントの話を書くんじゃなかったのか。

2005/2/7 (月)

講演「ページとコンピュータディスプレイ」概要

先週の金曜日に、日仏会館で家辺勝文先生の講演「ページとコンピュータディスプレイ: テキストの見せ方と読み方の現在」を聞きに行った。フランス語での通訳がつく講演だけに、さほど技術的な細部に立ち入った物ではなかったが、組版規則の位置付けを一歩引いた所から眺めることができて面白かった。

当日配布資料のPDFも公開されれており、余計かもしれないが、メモを縮約したまとめを置いておく。いろいろ考えたこととかもあるが、後日別にまとめることにしたい。

リテラシとしての組版規則

欧文ではタイプライタを使用した手紙の書き方を学ぶ経験により、適切なマージンの取り方、タイトルの位置などの組版規則に対する意識が育まれてきた。MS Word のインターフェイスは、ワープロ使い勝手を拡張したもののように感じる。それに対して、日和文タイプの技術は専門家の間のみに共有される技術であり、日本語ワープロの操作体系の下地となるチャンスを持ち得なかった。

欧文においても、タイプライターで手紙を書いていた時代と比べ、電子メールへの移行によって読みやすさを演出することへの配慮は退化した面もある。ブラウザにおいてはプレゼンテーションの技術が発展したが、ポスターやビジュアル詩のレイアウトに類似した物で、1 つの文章を疲れずに読んで行くレイアウトとはちょっと違うと思う。

組版が活版工場からデスクトップに移行したことにより、自分が書体・行間などの選択を適切に行わなければならなくなった。ワープロはその選択を反映してページを作るだけであって、適切な値は自分で知識を得なければならない。そのことがあまり意識されていないのは、高い筆を買うと字がうまくなるという勘違いと同種の誤りである。

書物と組版

書物に使われる活字サイズはせいぜい 3 mm 程度と小さいが、それで特に読みにくさを感じることはない。同じサイズのゲラ刷と比べても明らかに疲労が少ない。この読みやすさを演出する組版は、活字の大きさ・行間・見出しの位置・余白の設定などの多様な要素から成り立つ。だが、どの組版で読んだかが読後感に影響を与えることはない。

組版は書き言葉における冗長な要素であるため、不要な、どうでもいい物と考えられ、コンピュータ上での処理が後回しにされてきたのではないだろうか。

機械可読テキストと人間可読テキスト

人間がページを見てテキストを読むのとは違い、コンピュータはシーケンシャルにしかテキストを取り込めない。この違いがある限り、機械可読テキストから、人間の読める形に戻す必要が生じる。

コンピュータが扱える文字が増えるに従って言語に応じたプレゼンテーションの需要は高まってきたわけだが、コンピュータがその処理をできるようになるためにはどこに知識を求めればいいのだろうか。活版の技術は工場内に職人的技能の形で蓄積されていて、コンピュータ技術者がそれを必要としたと気にすぐに使えるような形にはなっていないという問題があった。  

マークアップ

「マークアップ」(フランス語で言えば「バリザージュ」) は、論理的構造の指定のためという見方が強かった。論理構造と表示体裁はだいたい一致するから、組版はわりに簡単に考えられていた。 しかし、その考えは (文献学への応用などにおいて) かねてから批判の対象となってきた。ページなどの物理的区切りを階層的な論理構造に入れ込むのは難しい。

一方、HTML が広く普及。最初からブラウザの表示が伴っていたため、体裁を指定するために用いる人が多かった。当初の目的とずれた使い方にゆがんだとも言えるが、組版体裁に着目して文章を見る人間の癖からすると、自然な事と言えるかもしれない。 「マークアップ」という英語はもともと「組版指示」という意味で使われていたのである。

論理的構造に留まらない文書指定の例 (ルビ)

JIS X 4052「日本語文書の組版情報交換形式」と、W3C の Ruby Annotation。 同時に同じ事をやっていたために協力が図られ、X 4052 に矛盾しない形でルビの仕様を定める事ができた。それによりブラウザのルビ表示一般化や、Azur のようなテキストリーダが登場。

組版技術の明文化

このような取組はそれなりにあるが、主流ではなく、理解は少数の人に留まっている。 一番の問題は、組版技術、工場内の個々人の技能を誰でも使えるように書き出さなければならないこと。

X 4051 第 1 次規格(1993)

90年前後の電子文書の諸問題を解決するために登場。横書きのみで、「ビジネス文書用」と銘打っていた。

1990年前後の電子文書処理の課題 (1) 技術的なはっきりした日本語表示ルールの必要性 (2) 仮名・漢字・アラビア数字・英字の混在をうまく取り扱うルール (3) 画面上の日本語表示は英文に比べ、いま一つ綺麗ではないというコンプレックス (4) 編集・印刷プロセスのコンピュータ化に伴う組版作業の大衆化。

1993年に行組版規則が誕生。 適切な行の区切り位置を見つけ、端数を行内で調整して整えることが行組版のキモ。 正方形から外れる要素の配置と、自然な分かち書き位置としての空白が存在しないテキストの区切り位置の発見が日本語行組版の特徴的な部分。

X 4051 第 2 次規格(1995)

第1次規格は、批判をたくさん受けた。最も多いのが「縦書きがないとは何事だ」というもの。わずか2年後には、縦書き、ルビ、傍点などの補充を含んだ第二次規格が出ることになった。欧文の縦組という新たな問題が生じる。

日本語に不可欠な事柄をほぼ網羅できた。ただし、行組版のみ。 ワープロソフトは、行を作るためのソフトではなく、ページを作るためのソフトで ある。つまり、まだ規範の存在しない大きな領域が残っていることになる。

X 4051 第 3 次規格(2004)

ページ組版が加わり、問題は一気に複雑になる。審議にも時間がかかって、規格の表現も複雑化。

ページ組版では「図とか表、注とかがいろいろ入ってきた時、どこでページを切って、挿入される物をどこに配置するか」が問題となる。縦にも横にも共通した表現として「字送り方向」「行の送り方向」などの用語が多数必要になる。

2005/2/21 (月)

イベントのお知らせ

今月はあと1週間ありますが、これがきっと最後の更新になると思います。

さて、ブックマークの方には昨日書いておいたのですが、3月25日に京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センターで、発表することになりました。また、3月26日の11:00〜11:50に、Open Source Conference 2005 でフォント関連のセッションをやります。こちらは会場との議論もたくさんある形式にする予定です。いろいろな立場の方から一言いただければと思っていますので、みなさま奮ってご参加ください。

OSC2005 の開催地は東京・大久保なので、早朝に新幹線に乗って帰ってくる予定。ドリーム&ひかりが使えればいいんだが、6 日前にならないと買えないのがちょっと不安。春休み期間中だからなあ。一昨年の「書体・組版ワークショップ」のときも、去年の「文字情報処理のフロンティア」のときも、ただ行って帰ってくるだけの旅行になったが、今回も京都観光などする時間は取れなさそうである。

あと10日以内に発表資料を作らないといけないので、それが書き上がるまでここの更新はしません。2/11 に覗いた未踏シンポジウムの紹介とか (X 4051 関連ネタ)、一昨日に紙百科で聴いてきた対談「うれしい編集、たのしいデザイン」(羽良多平吉+臼田捷治)の印象とか、余裕があったら書きたいんだけど、どうも無理っぽい。ものすごい勢いで機能強化されつつある Scribus のレビューとかもやりたいけどできないんで、誰かやってくださいお願いします。